雑誌
『少年少女譚海(たんかい)』
昭和5年7月号表紙 表紙画:須藤しげる(本名 須藤源重) (1898-1946) |
「少年少女譚海」博文館発行1920(大正9)年1月創刊 後の雑誌名:「譚海」 編集主任:荒井弘城(本名 南部新一)(1894-1986)
創刊当時の荒井弘城の回想 少年のあいだに、できるだけ名作を、多く読ませたい。それには、雑誌でそういう仕事をするより他に、方法はないのだ。(中略)「赤い鳥」は、多くのものが外国種であった。(中略)それよりも、日本ものの(中略)稗史小説類、軍談戦記もの、それに、田舎でかくれて読んだ貸本の講談種の、英雄豪傑もの、これを少年の読み物にしたい。これを実現するには、新しい専門の雑誌をつくるより、ほかに途はなかった。
荒井弘城、1965「『少年少女譚海』創刊のころ」『児童文学への招待』、 413頁~414頁、南北社
従来の創作物語の少年少女向け雑誌と異なり、歴史上の人物や講談の英雄豪傑伝を少年少女向けに書いた構成で人気を博した。 1巻4号から始まった懸賞企画も好評で、巻を追うごとに当選者の数も増加した。 漫画や投稿欄などの記事も掲載するようになり、やがては軍記もの、科学読み物に特化していく。 戦時体制と博文館の経営事情により、娯楽雑誌から科学雑誌へと編集方針が大きく変わり、読者も「少年少女」から少女を対象とする部分が消えてゆき、成人を対象とする雑誌へと変化していった。 |